syauto_sgsの日記(仮)

『スクスト』『スクメロ』が大好きな人のブログです。

ひとりごと

スクストを引退することに。
「最後までスクストを見届ける。自分にできるスクストへの愛の証明はそれしかない」という意思のもと、これまで協力戦とかも真面目に参加してきた。もちろん、そうした愛だけでなく、単純にゲームの仕組みに乗せられて、ステータスが上がるのが楽しかったというのもある。それと僕自身サンクコストでっかく見えちゃう人間だから、「ここまでやったのにやめるなんてもったいない!」の思考も働く。

が、キラルI/Oが終わって以降。途中までエピVも読んでいたが、就活に巻き込まれ、「読んでる暇がありゃちゃんと結果出さないと」とエピソードを徐々に後回しにして溜め込んでいって…。
それと同時に、携帯の容量もだんだんときつくなっていった。

一方で協力戦は後回しにもできないため、ついつい時間を消費してしまい。前述の愛を証明したいという意図もあり、「減り行くアクティブの中、ぼくは絶対にサボったりするものか」という意地みたいなものもあった。
この意地を張ってても仕方ないなあと思いながら、いつか就活が終わるからと思って続けていたが。
ちょっとやらかしちゃって、結局、個人で働くことに。つまり、固定給ではなくなった。となると、頑張る時間は多いほうがいい。よって、「忙しい」が永遠に続くことになった。

こうなると、スクストに再び愛情を向けようとする「ヒマ」なときは永遠にやってこない。今協力戦に投資している時間は、自分にとって無益というか、時間をかける割に得られる幸せが小さいものかもしれない。そんな可能性が、脳裏に浮かんだ。

そんなところで訪れた、突然の、ココロダマの要求。それは予告なしに訪れた。
ココロダマを真面目にコツコツ使って最効率を徹底していた僕にとって(自分のお財布と同じ課金額の人の中で、1番効率が良いプレイングをしていたい、と思っていたのだ。ある意味、完璧を追求していた。)、それは心がポキッと折れるには十分だった。
なんで、効率を最も追求していた僕が、急に、ココロダマを貯蓄していた(交換をサボっていた)人にステータスを抜かされねばならぬのだ。
もういいや、となってしまった。

2014年7月からこのゲームを遊んでいて、初めて、スクストのゲーム運営で「ん?」と思った瞬間だった。

スクスト、ありがとう。
また遊びたくなったら、遊ぶね。
またお話を読みたくなったら、読むね。

 

以下、なんとなく個人的に思うことの断片。論理わかりづらいし自分でも整理してない。何も結論がないです。

思うに、僕はお話の作家性に強く惹かれているように思う。誰々が作りました、とはっきりしている作品のほうが好きなことが多い。なんでかはよくわからない。作者のことが好きになることもあるし、そこまで作者に興味が沸かないこともある。
漫画小説は好きだし、アニメも、脚本演出絵コンテ監督を気にするほうだ。
一方で、グ〇ブルみたいな、何年も名前を聞いているのに未だに作者の名前を聞いていない、つまりチームで話し合ってお話を作っていそうなゲームのことは、あまり興味が沸かない。(注意:僕はグラブルのことをよく知らないので、この記述は嘘の可能性があります。)もちろん、スクストもチームで作っているといえばそうだが、スタッフロールで名前がドンとでかく出るように、石山節、高橋渉節というものが強く感じられた気がした。そのあたりの、「ああ、僕はこの人が考えた尊いものに元気をもらっているんだなあ」という瞬間がとても好きだった。


ソシャゲ(以下、大体スクストを想定しています。真実と違うことを書いているかもしれません)というものは、スターシステムを活用した週刊誌として捉えたらいいのかもしれない。もしくは、アニメドラえもんみたいなものかも。
同じ登場人物で、キャラが新作の話を見せてくれる。それはそれでめちゃくちゃ面白い。僕だってドラえもんサザエさんポケモンプリキュアはついつい見てしまう。(各シリーズをドライブするポケモンプリキュアはまた分類が別かも)
が、長く続くコンテンツになるとどうしてもスタッフが入れ替わる。そして新人の育成が必要になる。
そうすると、キャラは同じなのに作者がオリジナルと違う、ということが起こる。そこで先述の作家性を味わうことは、ちょっと難しい。このあたりの感覚はまだ言語化できていないのだが。
一言で言おうとすると、主要となる幹がないと……って感じ。メイン作家をずっと求めてしまうのだ。その人が書くお話の続きを求めてしまうのだ。その人がその世界を見出したのだから、その人が描く世界こそが「本物」であり、ほかは、二次創作を見ている感覚になってしまう。もちろん、別の人が話を書くことだってプリキュアポケモンにもあるが、ソシャゲとの違いがある。それは、プリキュアポケモンは一シリーズで一つの物語のみがドライブされ、シリーズが変わると登場人物も変わるのだが、一方でスクストは、登場人物が全く同じまま、新しい話が展開される。これはもう完全に僕の地雷の話だが、「一つの大きなお話の流れの中の、1エピソード」を他人が書くのはありだが、「一つの大きなお話の流れ」を原作者じゃない人が作り出すのは、ちょっとハマりきれないところがあるのだ(気にしていなかった頃はめちゃくちゃハマれたのだが、気にするようになって以降、ハマるのが難しくなってしまった)。なんというか、原作者が作った感動の余韻で動いてるじゃん……ってなって、急に心が離れていってしまう感覚。

う〜ん。難しいけどね。二次創作とか大好きだし。別に、二次創作としてpixivで長編小説を書くことは別に構わんのだよ。そういうの僕は好きでたくさん読んできたし。
でも、メインのクリエイターが違う中、登場人物だけ同じで、それを一次創作だというのはちょっと違う気がするんだ。キャラを愛している人は、関係なくのめりこめると思うんだけど。多分僕は、キャラと作者を結びつけて、つまり、作者が抱いた感情の一部がキャラとして生まれると考えている節がある。その作者にしか覗けないイデアがあって、それがキャラや世界観になるみたいな。
「このキャラいいな」と思う瞬間は、「このセリフを言える感情を持つ人がこの世の中にいるなんて尊いな」→「世界って捨てたもんじゃないな」だし(それは無意識に考えていたことをいま言語化してみただけで、毎回この言葉通り丁寧に思っているわけではないが)、それはつまり、作者を、生きている人間を愛することなのだ。